於大の方(おだいのかた)・水野忠政・徳川家康の木彫展示

更新日:2016年03月24日

於大の方(おだいのかた)(1528~1602)「立像の高さ160センチメートル」

緒川城に生まれる。父は緒川城主、水野忠政、母は於富の方。14歳で岡崎城主、松平広忠に嫁ぐ。翌年家康を産んだが、水野氏が織田方についたため、3歳の家康を残して岡崎を離縁された。後、阿久比の坂部城主、久松俊勝に嫁ぐ。離れてはいても、幼くして人質として熱田・駿府にあった家康の身を案じ、人を遣わして励まし続けた。今川義元亡き後は、夫俊勝とともに家康の天下統一を支えた。1602年京都伏見城で家康に看取られて75歳の生涯を閉じた。江戸伝通院に葬られる。

(写真)於大の方木彫全身
(写真)於大の方木彫上半身

水野忠政(1493~1543)「座像の高さ100センチメートル」

水野氏の本城である緒川城の城主で、於大の父。戦国時代、織田氏と今川氏、両戦国大名の間で、水野一族が知多から三河にかけて独自の勢力を維持するのは困難な道であった。忠政は一族の長として、1533年刈谷城を築き、ここに拠点を移す。1541年には、娘・於大を今川方の岡崎城主、松平氏に嫁がせたが、於大が家康を産んだ翌年に没した。乾坤院に葬られる。水野氏中興の租である。

(写真)水野忠政座像
(写真)水野忠政座像上半身

徳川家康(1542~1616)「座像の高さ105センチメートル」

母は水野氏の娘、於大の方、岡崎城主、松平広忠の嫡男として生まれる。幼名は竹千代。今川義元の人質として駿府で成長する。於大の母、源応尼(げんのうに)に養育され、今川の軍師、太原雪斎を師とした。
1560年義元が桶狭間で戦死すると、岡崎に帰り信長と同盟を結び三河を平定、遠江・駿河へ進出した。信長の死後、秀吉と戦うが和して臣従、関東6か国に移封され江戸城に移った。関ヶ原の戦いに勝利し、1603年征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開く。

(写真)徳川家康座像
(写真)徳川家康座像上半身

日展評議員 桑山 賀行(くわやまがこう)作家コメント

於大の方・水野忠政・徳川家康の木彫を制作するにあたり、於大の方は刈谷市の楞厳寺(りょうごんじ)所蔵の「鏡の御影」画像を参考にしました。水野忠政は名古屋市博物館所蔵の画像を、徳川家康は東京都の浄光寺所蔵の画像を参考にしました。
於大の方と水野忠政の資料は少なかったため、家康の資料からその人となりを推察しました。於大の方は凛(りん)とした強さ、忠政は思慮深さ、家康は人間としての器の大きさを表現したいと考え制作しました。

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