家康の母、於大の方(おだいのかた)

於大行列スタートの写真

東浦は、江戸幕府を開いた戦国時代の武将である徳川家康の母、於大の方出生の地です。町内には於大の方にちなむ寺院や史跡が多数残っています。

於大の方とは

享禄元年(1528年)、四代緒川城主の父水野忠政(みずのただまさ)と母於富の方(おとみのかた)の間に生まれました。この頃は、東に駿河守護の今川氏、北に尾張守護の斯波(しば)氏と織田氏が勢力を伸ばしていた時代。緒川・大高などの知多半島北部と三河刈谷を支配していた忠政も、今川方の岡崎城主、松平広忠(まつだいらひろただ)と手を結ぶため、14歳になった於大の方を広忠へ嫁がせ、翌年には後の徳川家康が産まれました。
しかし、家康が誕生して間もなく、忠政の跡を継いだ兄信元(のぶもと)が織田方についたため、松平氏と離縁することになり、その後、阿久比の坂部の久松氏と再婚しました。
家康が関ヶ原の戦いの勝利により天下統一を進めるなか、母として力を尽くしました。家康が征夷大将軍になり、江戸幕府を開く1年前の慶長7年(1602年)、京都の伏見城で最期を迎え、75歳の生涯を閉じました。遺骸は東京の傳通院(でんづういん)に葬られています。
時代の情勢に左右されながらも一生を生き抜いた於大の方は、まさに戦国の世界に生きた女性でした。

水野家三代の像の写真

多数残る於大の方ゆかりの場所

緒川城跡

水野貞守(みずのさだもり)が文明年間(1469年から1486年)に築城したと伝えられ、忠政や信元ら水野氏の居城となりました。緒川の標高8メートルの台地上に築かれ、絵図によると主郭は東西83メートル、南北95メートルの平山城だったようです。現在は主郭北西部の土塁のみが残っています。
所在地:愛知県知多郡東浦町大字緒川字古城

緒川城跡の写真
緒川村古城跡絵図の写真

宇宙山(うちゅうざん) 乾坤院(けんこんいん)

文明7年(1475年)、水野貞守が一族の菩提寺として創建しました。寛文10年(1670年)には、岡崎城主水野忠善(みずのただよし)により、水野氏歴代の位牌(いはい)を祀(まつ)る堅雄堂(けんゆうどう)が建立され、忠政と忠善の座像を奉納しました。境内には忠政、忠政の息子忠守(ただもり)、忠守の息子忠元(ただもと)、忠元の息子忠善の墓があります。

平成28年3月4日(金曜日)に、火災が発生し、乾坤院本堂(開山堂(かいざんどう)、本玄関を含む)、座禅堂(ざぜんどう)、堅雄堂が全焼し、山門(さんもん)の屋根の一部が焼損しました。

乾坤院の写真
水野家四代の墓所の写真

善導寺(ぜんどうじ)

嘉吉3年(1443年)創建と伝えられています。於大の方は生前、善導寺を菩提所として自身の所持品を納めました。慶長10年(1605年)には、緒川城主水野分長(みずのわけなが)が水害を受ける海辺から現在地に移築、於大の方の位牌を安置し、寺領20石と屋敷を寄進しました。

善導寺の写真

於大のみち

「於大のみち」は、一般国道366号から乾坤院までの明徳寺(みょうとくじ)川の両岸約2キロメートルの歴史散策路です。春には於大まつりが盛大に開催される沿道には約20種類600本の八重桜が植えられ、於大の方が着用した夜着をモチーフにしたモニュメントなどが設置されています。左岸には「於大の方物語」、右岸には「東浦の歴史」を記した陶板が敷かれています。

八重桜が咲く於大のみちの写真
於大姫の写真

東浦町観光マスコット「おだいちゃん」

平成24年4月に誕生した東浦町の観光マスコット「おだいちゃん」は「於大の方」がモデルです。
年齢は永遠の5歳!チャームポイントは、桜色のほっぺです。
頭についている白い花は、町の花である卯の花、着物のHはHIGASHIURA(ひがしうら)のHで、緒川城に住んでいます。
平成25年4月1日には、特別住民票も交付されました!

おだいちゃんの紹介写真とイラスト